黒い霧事件で永久追放された永易将之の真相|八百長の闇と現在の消息
日本プロ野球の歴史において、最大の暗部として語り継がれる「黒い霧事件」。その引き金を引いた中心人物であり、日本球界で初となる「永久追放(永久失格処分)」の烙印を押された投手が、元西鉄ライオンズの永易将之(ながやす まさゆき)です。将来を嘱望された本格派右腕が、なぜ暴力団が絡む八百長工作へと足を踏み入れてしまったのか、当時のファンに走った衝撃は計り知れません。
事件から半世紀以上が経過した2026年現在もなお、プロスポーツにおけるコンプライアンスや八百長問題が議論される際、必ず引き合いに出されるのがこの事件です。球界から追放された後の失踪劇、世間を騒然とさせた「爆弾告白」、そして知られざる最期まで、激動の人生を歩んだ永易将之の足跡と事件の全貌を、当時の記録と関係者の証言から紐解きます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:永易将之は西鉄ライオンズの主力投手だったが、1969年に発覚した八百長(敗退行為)への関与により日本プロ野球史上初の永久失格処分を受けた。
- 要点2:処分後に失踪するも、1970年4月に突如メディアに登場して「自分1人が泥をかぶらされた」と告白し、池永正明ら同僚選手を巻き込む大事件へと拡大した。
- 要点3:球界追放後は札幌へ渡り飲食店などを営んでいたが、2003年に病気のため人知れず死去しており、波乱に満ちた生涯に幕を下ろしている。
【発端と軌跡】西鉄ライオンズのエース候補・永易将之の経歴と投手成績
永易将之は1942年1月1日生まれ、大阪府出身。大鉄高校(現・阪南大学高校)から電電近畿(現・NTT西日本)を経て、1965年に西鉄ライオンズへ入団しました。180センチを超える堂々たる体躯から投げ下ろす重いストレートと鋭いシュートを武器に、黄金期が過ぎ去り低迷期に入りつつあった西鉄投手陣の救世主として大きな期待を集めていました。
プロ入り後の成績は着実に伸び、1967年には8勝、翌1968年には自己最多となる10勝(8敗、防御率2.77)を記録。先発・リリーフをフル回転でこなす主戦級投手としての地位を確立します。通算成績は141試合に登板して28勝33敗、防御率3.28。決して圧倒的なエースナンバーではありませんでしたが、勝負どころで任される確かな実力を備えた右腕でした。しかし、その勝負強さとマウンド上での影響力の高さが、皮肉にも裏社会の賭野球グループに目を付けられる要因となってしまいます。
【黒い霧事件の経緯】球界初の「永久追放」処分が下された決定的な理由
疑惑が表面化したのは、ペナントレース終盤の1969年10月のことでした。読売新聞および西日本新聞が「西鉄の投手が暴力団関係者から金銭を受け取り、わざと試合に負ける八百長(敗退行為)を演じていた」とスクープ報道。球団は直ちに内部調査を行い、永易を謹慎処分としました。
永易が八百長に染まった直接の理由は、暴力団関係者が仕切るオートレースや賭博で作った多額の借金でした。返済に窮した永易に対し、暴力団関係者は「わざと打たれて負け投手になれば、借金を帳消しにした上に報酬を支払う」と持ちかけます。1969年シーズン中、永易は登板した複数の試合でカウントを取りに行き甘い球を投げるなどして故意に失点し、試合を操作していたと認定されました。
事態を重く見たコミッショナー委員会は1969年11月28日、野球協約第305条(有害行為)に基づき、永易に対して球界史上初となる「永久失格処分」を通告。球界関係者との接触すら禁じられる事実上の永久追放となり、永易のプロ野球人生は突如として断絶しました。
【衝撃の告白】「俺一人じゃない」失踪から一転した八百長暴露劇の真相
処分が下された直後、永易は球界関係者の前から完全に姿を消し、行方をくらまします。世間は「西鉄のトカゲの尻尾切りで幕引きを図った」と見ていましたが、事件はこれで終わりませんでした。失踪から数カ月が経った1970年4月上旬、永易は週刊ポストの手配によって前田康介記者らの前に現れ、テレビカメラの前で衝撃的な記者会見を開いたのです。
永易の口から語られたのは、「自分だけが悪者にされて切り捨てられた。八百長をやっていたのは俺一人ではない」という怒りと怨嗟に満ちた告白でした。永易は暴力団関係者から依頼された八百長の工作資金を仲介し、チームメイトにも敗退行為を持ちかけていた事実を暴露。その証言の中で、当時西鉄のエースとして通算100勝を目前にしていた池永正明をはじめ、城之内邦雄(巨人から移籍)、与那嶺要(中日コーチ)、船田和、村上公康といった選手たちの名前が次々と挙げられました。
この告白によって火の粉は西鉄一球団にとどまらず、他球団やオートレース界、果ては政界・角界にまで延焼し、日本中を揺るがす未曾有の社会スキャンダルへと発展していったのです。
【波乱のその後と死因】追放後の逃亡生活、札幌での消息と最期
全てを暴露し尽くした会見の後、永易将之は再び表舞台から完全に姿を消しました。野球界から完全に切り離された男の「その後」は、長年にわたり謎に包まれていましたが、後年の取材によってその波乱に満ちた足取りが明らかになっています。
永易は身を隠すように北の大地・北海道へと移り住み、札幌市の中央区・すすきの周辺でバーや飲食店を経営しながら生計を立てていたとされます。当時の常連客や知人によれば、過去のプロ野球の話を自ら口にすることはほとんどなく、ひっそりと目立たぬよう暮らしていたといいます。
そして2000年代に入り、かつての仲間である池永正明の名誉回復・復権を求める署名活動が球界内外で熱を帯びる中、永易本人はすでに重い病に侵されていました。2003年3月、札幌市内の病院において61歳で死去。死因は肝不全と報じられました。自分が引きずり込んだ同僚たちがその後どのような人生を歩んだのか、そして球界がどう変わったのかを見届けることなく、かつて球界を震撼させた右腕は静かに世を去りました。
【プロ野球の闇】池永正明ら処分選手一覧と西鉄ライオンズ崩壊の歴史
永易の告白を引き金に、プロ野球界には激震が走りました。コミッショナー委員会による一斉調査の結果、1970年5月から6月にかけて多数の選手に対し、前代未聞の重処分が下される事態となりました。
当時、黒い霧事件で処分を受けた主な西鉄ライオンズの選手は以下の通りです。
- 永久失格処分(永久追放):永易将之、池永正明、与田順欣、小川健太郎(中日)
- 1年間の失格処分:船田和、村上公康
- 戒告処分:基満男
特に池永正明に関しては、「八百長への加担を断ったものの、預かった現金100万円を返却せず手元に保管していた(隠匿行為)」という理由で永久追放となり、その処分の重さを巡って後年まで激しい議論が巻き起こりました(※池永氏は長い復権運動を経て、永易の死後となる2005年に失格処分が解除されています)。
かつて三原脩監督のもとで黄金時代を築き、野武士軍団と恐れられた西鉄ライオンズは、主力を一挙に失ったことで完全に崩壊。チームは最下位に沈み、ファンの信頼を失った球団経営は急速に悪化しました。結果として1972年オフに福岡野球(太平洋クラブライオンズ)へ売却され、西鉄ライオンズの栄光の歴史は悲劇的な形で幕を閉じることになったのです。
【永易将之】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:永易将之はなぜ八百長に手を染めてしまったのですか?
A1:最大の原因は、オートレースや違法賭博によって膨らんだ多額の借金でした。暴力団関係者から借金免除と報酬を提示されたことで関係を断ち切れず、敗退行為(意図的な失点)の要求を受け入れてしまいました。
Q2:永易将之の永久失格処分はその後、解除されたのでしょうか?
A2:解除されていません。同じく永久追放処分を受けた池永正明氏は2005年に処分が解除(名誉回復)されましたが、八百長工作の直接の主犯格と認定された永易将之は、生涯を通じて処分が解かれることはありませんでした。
Q3:永易将之の現在と最期はどうなりましたか?
A3:事件後は札幌市すすきので飲食店を営みながらひっそりと暮らしていましたが、2003年3月に61歳で亡くなっています。死因は肝不全とされています。
まとめ:球界を揺るがした事件が残した教訓と歴史的爪痕
永易将之という一人の投手が背負った「黒い霧事件」の爪痕は、半世紀以上が経過したプロ野球界においても、決して風化させてはならない最大の教訓として刻まれています。才能ある選手が一瞬の心の隙と金銭トラブルから裏社会に取り込まれ、自らの選手生命のみならずチームメイトの未来、そして名門球団の歴史そのものを消滅へと追い込みました。
スポーツがファンから愛され続けるための絶対条件である「公平性と真剣勝負」。永易将之の波乱に満ちた生涯と悲劇的な結末は、不正の代償がどれほど過酷で取り返しのつかないものであるかを、今を生きる私たちに冷徹に物語り続けています。 (出典: 永易 将 之(Yahoo!ニュース))